当分不在

February 20 [Mon], 2012, 17:50
約3週間不在にします。こんどは予防のための検査ですのでご安心のうえご放念ください。

「フィールド」の編集などにいい環境だと喜んでいます。ではまた・・。

BSおかやま句会−Field 21号C

February 17 [Fri], 2012, 17:27
作品を読むー石部明C

まぼろしのくせにきわどいことを言うきりのきりこ
「まぼろし」とは、日常にふいにせり上がってくる非日常のようなもので、誰にでも見えるものではないが、この句に立ち止まったのは「くせにきわどいことをいう」と気をひくフレーズにある。一方的で理不尽な物言いともとれるが、「まぼろし」との距離の取り方が絶妙なのだ。虚と実の境界のない、まるで一つ屋根の下で暮らす同居人のような関係で「まぼろし」を捉えているようだ。ということは、きりのきりこ自身が、「まぼろし」と「実」を、日常と非日常を半分ずつ身にまとって日常のふりをしている不思議な存在なのかもしれない。そうでなければ、「売れ筋ですよ去勢済みですよ」などというきわどい句が作れるわけがない。

尿道の旅の果てなる紙おむつ     東おさむ
刈り取った膵臓跡を掃いている     〃
遮断機は気まぐれ冠動脈封鎖      〃
駐禁とある大腸の七曲り        〃
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の芭蕉と東おさむを同列に置くつもりはないが、句集に平成一六年、心臓の冠動脈閉塞によるバイパス手術で一命を取りとめ、さらに五年後、膵臓癌を告知され、後遺症に悩まされながら家族とともに闘病生活を続けているとある。この凄まじい数年をもって、東おさむの川柳は、ユーモアの奥にいのちを凝視する、研ぎ澄まされた笑いを手に入れた。洒脱な人生観にさらに磨きをかけながら、これからも自らの生をみつめていただきたい。

 父さんの枯野を回す洗濯機      安原博
 父ではなく「父さん」であるぬくもりと「枯野」のきびしさ。洗濯機で回っているのは油にまみれた作業服とすれば読みは完結するのだが、それでは折角の句が類型の中で落ち着いてしまう。ことさらに捻った読みをする必要はないが、「父さん」は「父」ではなく「我」ではないか。さらに洗濯機の中で回っているのは一枚の枯野のような「我」かもしれない。「枯野(我)を回す洗濯機」を凝視している「我」という景色の、シュールさ、怖さ、おかしさ。存在のあやうさへの眩暈に立ち止った一句である。

削られた山の傷口には真水      小澤誌津子
山や野や川に慈しまれ、育てられた田舎育ちにとっては自然こそが古里そのもの。かつてのバブルの時代ほどの乱開発はなくなったが、文明と生活優先の大義の前に、コンクリートで固められた川の悲鳴は絶えることがなく、沈黙のまま削られた山の傷跡は放置されたままもう何年が経つだろうか。それが耐えがたく小澤誌津子はその傷口に、祈りのように「真水」を注ぐ。ここで注目したいのは、水ではなく、あえて「真水」とする意志によって、「削られた山の傷口」は外部の風景から、誌津子の内部に痛覚として取り込まれ、自然と人間の精神の一体化が図られていると言っても過言ではない。

合格へ猫を転がしはしゃぎあう    吉谷靖子
コップの中で溺れている世帯主     〃
新人だと思っていたが、どこで身に付けたのか川柳伝統の骨格をすでに持っているようだ。しかも現代風俗を巧みに取り入れるセンスは学習ではなく、先天的なものなのだろう。合格の吉報に家族中が大騒ぎしている様子が躍動する「猫を転がしはしゃぎあう」は、パターン化されていない新鮮な表現だ。二句目はややパターン化されているが、このあたりから伝統川柳に現代をどう再生してゆくか。時代をどう照射し自分のものにしてゆくか。急ぐことはないが、自分のセンスを信じて書きつづけてほしい。

耳のない一人を選ぶ団子虫      田中蛙鳴
ダンゴムシには進行中に壁にぶつかると左へ、次は右へ(あるいは右へ、次は左へ)と交互に曲がっていく習性があるらしい。この行動を「交替性転向反応」というようだが、そのことと「耳のない一人を選ぶ」は関係あるのだろうか。あるいは田中蛙鳴が「団子虫」で、何らかの理由で、あるいは理由がなくても「耳のない一人を選ぶ」ことがあってもいい。そんな一句自体に何か新しい意味を生む力が備わってくるものだ。たとえば「包帯の中を電車の停止する」は「押し入れの中を」「瓶の中を」「顔の中を」と何度も作られたことを思うと、「耳のない一人」の方が私にはずっと刺激的な句だ。

わたくしも地球もうつる朝のつゆ  牧田浩子
「わたくし」というちっぽけな存在が、「地球」と同等の存在感でここに置かれていると思いたい。それがいのちの重さであり、「朝の露」に光る牧田浩子がここに存在する理由でもあるのだ。「生きざまの鱗は生きて光らせる」「抜け殻かいのちのいろか蝉しぐれ」はやや観念的だが、「人間を脱いでいただくしじみ汁」のように、誰よりも命のおもさを知っている作者の、作者にしか作れない句を待っていたい。

陽を浴びてうっかり光ってしまったの 井上早苗
直接的で、開放的な把握を志している井上早苗の句は、常に向日性を持って心の開花を願う。「陽を浴びて」「うっかり光ってしまったの」と言うことは、いかにも作り物めいて現実ばなれしているようだが、「うっかり光ってしまったの」は生の充実を示す早苗の本心であり、かけがえのない生の証でもあるようだ。勿論、陽の光りは直線的なものばかりではなく、屈折した光の濃度とどう向き合うか、光りに傷つく痛みをどうことばにしてゆくか、などと、読み手とはいつの場合もないものねだりをして作者を困らせるものだが、ときどきあっと思わせる怖い句も作る。

あらぬこと思って壷を覗き込む   松原典子
 何かについて解ることが、自分自身のこれまでの既成概念を打ち破りことになったという経験はないだろうか。その時の発見には二重の意味があり、一つは発見により自分が更新される喜びがあり、自分がひとまわり大きくなれたような実感がありはしないか。勿論それは第三者の推し量ることではなく、自分で実感することなのだが、松原典子が句集『猫だまし』を出してそのような実感があったのかどうかは聞いていない。しかしその後の創作を見る限り句集が彼女に何らかの影響を与えたのは間違いない。「自分を書く」ことに忠実で、前面に押し出されていた「自分」が、句の背景に沈められるようになったこと。それによって、思いがけない自分の出現に驚く作者の巾が広くなったように思われる。「あらぬこと」、つまりは人に知られたくない思いで「壷を覗き込む」ことの悪意は、読み手にも共犯を強いる非日常的な典子の位置であり存在であろう。

水平になったら羽を折り畳む    松原典子 
ごく普遍的な平衡感覚のようだが、自分についての新たな発見。古い自分を拭い去る瞬間の確認である。

錯覚がつづく目医者へ行ってみる  斎藤幸男  
対象物に対して誤った感覚や認識をするのが錯覚で
あり、見間違い、聞き違い、人違いなどさまざま。恐怖や期待などの心理状態が錯覚を生むこともあれば、不定形の対象物が違ったものに見える現象に代表される錯覚もある。あるいは視覚のあいまいさを利用した騙し絵などもよく知られるところだが、目医者へ行って治るものではない。それは斎藤幸男もわかっていながら「目医者へ行ってみる」とは、川柳だからこその人を食った話である。

思慮深い顔でうどんのゆで具合   柴田夕起子
たかがうどんをゆで具合に、芸術家のように難しい顔をしてみせる店主と客の、食通ごっこかどうかは知らないが、最近の食文化への皮肉は捉えれば痛烈。

 手を股に挟んで耐える山間部    草地豊子
生活者の語り口そのままのリアルな「手を股に挟んで耐える」は、草地豊子のいまではなく、幼少時の体験から導きだされた記憶であり、意味ではないかと考えた。猫の額ほどの田と農家が点在する山間部の女たちは、まさに「手を股に挟んで」身体を擦り寄せるようにして、貧しさに耐えてきた時代。豊子は子どもなりにその時代とかかわってきたのではないか。この句にはそう思わなければ、表現者一般には還元し得ない重たさがある。さきに「生活者の語り口そのままの」と書いたが、生活者の語り口そのままであるがゆえに、「受け口の魚だったと記憶する」とともに、一句の底はますます深くなっているように思える。     

BSおかやま句会−Field 21号B

February 15 [Wed], 2012, 8:09
作品を読むー石部明B

不器用な手から頂くモーツアルト  沼尾美智子
 「不器用な手」の向こうにいるのは誰だろう。夫か、成人した子どもたちか。「頂く」というからには秘かに愛する人かもしれない。つい詮索したくなるのは、クラシック音楽の代名詞のような「モーツアルト」の名前の大きさと、その音楽に魅せられた人たちの「モーツアルト」だけでつながる素朴な交わりが伝わってくるからだ。私はクラシックに詳しくないが、たまたまモーツアルトの三五歳で死んだ悲惨な最期を知ったことで、郷愁のようにこの句に引き寄せられたのかも知れない。

 もういいかい泡になるまで目をつぶる 西村みなみ
 松任谷由美は「ソーダ水の中を貨物船がとおる」と歌ったが、小川洋子の小説にもサイダー工場で働く女性の指がサイダーの泡に沈んでゆく描写があった。泡という、消えてゆく前の刹那の生の形が女性たちのこころを捉えて離さないのだろうか。西村みなみの句は泡ではなく「泡になるまで目をつむる」のだが、泡となって、やがて消えてゆくものへの哀惜をこめた「もういいかい」に思いのすべてがかかっているようだ。

 冬晴れの少女の睫毛まっすぐのびる  小西瞬夏
 冬薔薇なりたいようになれずいる    〃
 冬蝶の冬のところで泣きだした     〃
 「冬晴れ」「冬薔薇」「冬蝶」と感傷的な自画像の相だが、俳人でもある小西瞬夏の抒情の質の高さは、「冬晴れ」の句の「睫毛まっすぐのびる」に象徴されている。そのことを確認するために後の二句を付記してみたが、「なりたいようになれずいる」「冬のところで泣きだした」の感傷的抒情は、ナルシシズムを超えていない。だがこの二句は、しなやかに屹立する「冬晴れ」の一句を支える役割を果たしていると読んでみたが、どうだろうか。

ざっと水に晒す京都迎賓館  岩田多佳子
寝ている水に声を掛けてはいけません   〃
私は作り手としては、十七音字、五・七・五にこだわる方だが、それはあくまでも基本であって、破調を否定するつもりはない。岩田多佳子は意図してのことなのか、偶然なのか破調が多い。破調がインパクトとなって成功している句も多い。   
京都で「ざっと水に晒す」といえば友禅流しだが、日本建築の伝統技術の粋を集めて造られた「京都迎賓館」も、仕上げの段階では鴨川の水で晒されるのか。あるいは今でも時々水に晒してみがき直しているのかも知れないが。さて難問は「寝ている水」だが、ユニークな句だけに避けては通れない。たとえば「寝ている子どもに」「寝ている鳥に」「寝ている鯨に」と、生物に置き換えれば解りやすいが、「寝ている家に」「寝ている山に」「寝ている森に」でも意味は通じると考えていけば、「寝ている水に」になんの不自然もないことに気づかされる。つまり多佳子にとっては森羅万象すべてのものが、自分とおなじ呼吸をし、眠り、目覚める存在であるというごく自然な思考によって、流れる水といのちを共有し、「声をかけてはいけません」と身のうちにたゆとう水を眺めているのではあるまいか。

うからはらから伊藤左千夫の墓につく 松本藍
うから(血族・親族)、はらから(同胞)を一つのことばにした阿川佐和子の小説『うからはらから』(血のつながりがなくても深く親しい間柄)が広く読まれているようだが、松本藍は伊藤左千夫に深い思いがあるという。「うからはらから」ということばを上手く取り入れて、正岡子規に師事し、後に明治三八年、夏目漱石が絶賛したという『野菊の墓』を書いた歌人・伊藤左千夫への永年の思いを一句に残す。「緞帳があがる花かんざし 瓦礫」「騒がしいハングル文字の缶の泥」も、いずれ句集を出すときには欠かせない句になるだろう。
空き部屋へ時どき猫と灯をともす   江尻容子
 卓上のあけび話をするかえる
小品ながら味わいのある二句。かつては灯の消えることのなかった部屋が、「空き部屋」になってしまった寂しさは、日にちが経てば経つほど深くなるもの。街に出た息子が帰るはずもなく、嫁ぎ先の娘を来させても、もう夕方にはいそいそと帰ってしまうし、薄暗い台所の片隅でひとりの夕食をさらさらと済ませたあとは、いつからか居ついた猫を相手に「空き部屋」の灯をともし、ひとり身の行く先を案じたり・・と、やがて来るかも知れぬ現実を、一足先に川柳で学習しているような句だ。
二句目は趣を異にして、「おるうん?、朝はように裏山へいってきたんよ。よう熟れたあけび採ってきたからここおくね、はよおたべ、じゃ勤めがあるしぃ、いそがしいからまたね」などと、まるで「あけび」が勝手に来て、一人喋って、あわただしく帰っていくような田舎の朝の風景だ。

包帯が取れ私の輪を描く      前田ひろえ
包帯の巻かれていた箇所は、手首であっても心のどこかであってもさほど重要ではない。重要なのは、ここに書かれていない包帯の巻かれていた歳月をあらわす汚れ具合だが、それに比例する開放感の大きさが、まるで鳶のように大空一杯の輪を描く喜びとなっているようだ。前田ひろえは難しい句は作らないが、さりげない日常生活に柔軟に分け入ってゆく目と心によって、さまざまな出来事や事象を確かめようとし、現実批評の精神とことばによって現実生活を再構築しょうとする。そして、この句のように未来に向かって自らの在りようを求めずにはいない姿勢を、常に持とうとしているようだ。

次々と回転イスに座らされ      畑佳余子
ことばによって断片的に切り取られた風景から何が見えるか。特に十七文字という制約の中で何かを伝えようとすれば、読み手の想像力をあてにして、省略を試みることも必要になる。ただ、想像は人それぞれでこの句から理髪店の椅子をイメージする人もいれば、長蛇の列をあとに残した処刑の椅子を思い描く人がいるかも知れない。あるいは、自分たちの意志ではなく、日常という流れ作業に組み込まれた回転イスを俯瞰した図ととれなくもない。私たちの生はいつの場合も、歩かされ、走らされ、ときどき椅子に座らされ、誰かが螺子を巻くゼンマイ仕掛けのような生なのだと、風刺を効かせているようでもある。

プロフィール
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  • アイコン画像 ニックネーム:石部明
  • アイコン画像 性別:男性
  • アイコン画像 趣味:
    ・映画-http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/back-hp/eiga.htm
    ・短詩文芸-575の世界をさまよう
    ・読書
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革新に走らず、伝統におもねず、参加者の個性を尊重し、誰でも自由に発言できる双方向性の会を目指し、創作の自由を保証し、川柳を学ぶ句会と勉強会を並立する。      BSおかやま句会− Field発行人・石部明
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