一切皆苦 

2006年08月13日(日) 4時05分
一切皆苦とは、私たちの住むこの世界が、私たちの思い通りにはならない世界であって、それ故、さまざまな不自由や苦悩を伴う世界だと言うのです。
こんな不自由な世界に住むしかないわたしたちは、何かにつけ悩み苦しみます。そして、それを克服し酔うとするためにどうしたらいいか?と探し続け、問い続けます。そんなわたくしたちに。み仏様は
頼む一念ですがってこい。心底からすがってくるのなら身に正しく如来の言葉(おじひ)を授けて、正しく導いてやろうと言ってくださるのです。
なむあみだぶつは南無阿弥陀仏と表記され阿弥陀仏と言う御仏に心からおすがりします。即ち帰依(南無の意味)と言う意味だとされます。ですから本来すがりきろうとする時阿弥陀仏に対してのみ使われる名号なのです。ここでいう、阿弥陀仏とはみ仏と今、目の前にいてくださるお方に呼びかける符号に過ぎないと考えるのです。そのため、宗祖上人はみ仏より
南無阿弥陀仏が好きなら南無阿弥陀仏ですがり、南無妙法蓮華経がすきなら、それ、南無大師遍照金剛が好きなら・・
要は願うそなたの胸次第だと頂かれたのです。

わたくしは想います。
宗教は戦争すら起こします。それは、他宗派を否定するからです。
認めて進むのは本来難しい事です。それは、人間でも同じではないでしょうか?

信行一如 

2006年07月16日(日) 0時46分
信じるという心のあり方と行ずるという行為とは、信心においては必ず一致したものではなくてはならないという意味です。
身語正第二世覚照げいかは、常に信じるといえども、行じざれば、まことの信心にあらず、
行ずるといえども信じざれば,真に行じたことにはならない。論してくださいました。
わたくし達も肝に銘じたい言葉です。


千願経
元来の意味はひとつの経典(主に般若心経千願となえることを云います。
それを厳密に実行せんと時は十人の人が集まり百巻を唱える一座を作ります。
本宗においては、厳密な数の取り方をもって千願経とはせず、
お起きの人々が心をひとつにして「千願」という数の大きさを多さを積み上げる一座を毎月第四日曜日に行っています。


御行(おんぎょう=身の布施)
身の布施はもっとも喜ばれるお行のひとつです。
身体を使って、一生懸命取り組ませて頂くことは、お参りと同じくらい
御礼報謝の真を積ませて頂くことです。
身(身体)をつかい、仏様、人様に喜んでいただけるお行として、
草むしり、雑巾がけ、おトイレ掃除、些細な事から取り組ませていただきたいものです

本山(佐賀)の五重宝塔です。

虚空蔵菩薩様 

2006年07月08日(土) 23時10分
わたくしは。虚空蔵菩薩様と弘法大師様とお不動様を頂いております。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ、こくぞうぼさつ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一つ。サンスクリットではAkasagarbhaという。

「虚空蔵」は文字通り「虚空を蔵する」の意で、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持ったほとけ、という意味である。胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。


虚空蔵菩薩像(東大寺金堂)像容は右手に宝剣、左手に宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)とし、左手に宝珠を持つものとがある。後者の像容は、記憶力増進を祈念する修法「求聞持法」(ぐもんじほう)の本尊で、東京国立博物館蔵の国宝の画像はこれに当たる。

彫像の代表例としては、奈良・額安寺像、京都・広隆寺講堂像などが挙げられる。 奈良県斑鳩町・法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像は7世紀にさかのぼる古像だが、当初から虚空蔵菩薩と呼ばれていたかどうかは定かでない。また、法隆寺の百済観音像は明治前半までは寺内で「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていたことがわかっている。

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五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩のみ5体を群像として表わしたものである。虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表わしたものとも言い、五智如来の変化身(へんげしん)とも言う。五大虚空蔵菩薩像は、息災・増益などの祈願の本尊にもなっている。五大虚空蔵菩薩の名称、方位、身色は次のとおりである。

法界虚空蔵(中央、白色)
金剛虚空蔵(東方、黄色)
宝光虚空蔵(南方、青色)
蓮華虚空蔵(西方、赤色)
業用(ごうよう)虚空蔵(北方、黒紫色)
五大虚空蔵菩薩の彫像の作例としては、京都・神護寺多宝塔安置の像(平安初期・国宝)が著名である。京都・東寺観智院安置の五大虚空蔵菩薩像(重文)は、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から将来した像である。法界、金剛、宝光、蓮華、業用の各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥(こんじちょう)、孔雀の上の蓮華座に乗っている。この観智院像は、もとは山科(京都市山科区)の安祥寺にあったものである。
真言
のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おん あり きゃまりぼり そわか
おんばざら あらたんのう おんたらく そわか

ご縁 

2006年04月23日(日) 5時36分
百万遍、千願経、護摩供養、法要とお寺に行かなくてはいけない日の前日は、部屋がざわついて寝ることができないことが多々あります。ご先祖ご供養、諸願成就。まだまだ足りないからです。
わたくしは、小さい頃から心眼を持っていました。
俗に云う幽霊が見えるのです。
まだ、親族と交流があるとき、九州の当時の親先生のお寺に行きました。
南無阿弥陀仏以外、何を云ってるのかすらわからず、一座上げていただきました。
ただ、ただ、あふれる涙。お聖人様がしかとこの方を叩かれ、他界した高僧だったおばぁちゃんが、ニコニコしてる姿も見せていただきましたなにがなんだかわからなかったのですが、これをご縁に、修行が始まりました。もう何十年になるでしょうか。
人間というものは浅ましい。極限まで苦しくならなければ、信じようとしない。すがって助けて頂きたいと心から思えないものです。
どこの宗派でもそうでしょうが、うちの宗派は、決して甘くない。お滝。お百度、日々のお勤め。何時間にも及ぶお経。108巻のお行。講習会では百礼といって、連花をもち、108回立ってはひざまずき、頭を床につけ、ご本尊、お不動様、阿弥陀如来様に、この身を預けます。何日も繰り返されます。
300日のお行に入った時も、33滝をこなし、朝から夕方までお経と精神力との戦いでした。
信じる心、すがる一念がなければ、仏様は、手を差し伸べてはくれません。
迷い、宗派に対する邪心があっては、ご本尊様はお見通しなのです。
2年以上もお滝お百度長時間のお行、毎日のお経をしている方すら、ご縁結びを許されなかった方もいらっしゃいます。ご縁結びをされても、離れていく方も沢山いらっしゃいます。
新しくお寺にこられた方、始めたばかりの方は見える聞こえると。それはそれは誇らしげにおっしゃる方が沢山います。この宗派は身にまさしく如来の言葉を授かるものですが、見えた聞こえたと自慢げに云っていては何がその先できるのでしょう?成仏されていない仏様のお催促がどういうものなのかが見えるのでしょうか?そのお手伝いをさせて頂くのが、導きです。親仏です。仏心を授かるのはそんなに甘くはないのです。
ただ、心一つ。
怠ることなかれ。力以上のものをおごるなかれ、誠で信じる気持ちが願う気持ちが路を開いてくださると想っております。

積み重ね 

2006年04月23日(日) 0時17分

お経の中に「多聞ありといえども、もし、修行せざれば、不聞に等し」と言う言葉があります。「有り難い仏様の教えをたくさん聞いても、行じなければ(実践しなければ)聞かないのと同じである」の意味です。 日々、あれやこれや、やらなければいけない事は沢山あるでしょう。
ですが、日々授かるお仕事は大小上下によらず、仏様より授かりたる菩薩の浄行なりと悟り、めんどくさい。。後でいいや、など迷う事なかれ。
南無とは帰依すること。帰依とは従う事。実践する事。
お行は決して楽なものではないです。
どの宗派でも同じだと想います。
己の浅ましさを実感し懺悔から始まるものではないでしょうか?
こころからすがる気持ちが、心願諸願成就に仏様に心が届くと信じています。
難しい事ではないと想います
日々のやらなくてはいけないこと。宗派に入ってらっしゃらない方はご先祖様の供養を忘れない事。
手を合わせる気持ちが路を開くと信じています。
ご先祖代々が菩提なり。
根っこに肥やしを授けなくては現世の幹は伸びないのです。
問題にぶつかったとき、自分の心と向き合い、何が欠けていたのか、認めてもらえなかった部分は何だったのかと自問自答し、仏様にすがっていく以外におじひを胸中に授かる近道はありません。
また、厳しいお行や難しいお行ばかりをすることで、おじひをいただけるというわけでもありません。
一人で目標に向かうのは難しい時でも、回りの方々の笑顔や、支えていただく底力が、乗り越えるエネルギーになります。みんなは一人を支え、一人がみんなを支える、その助け合いが人生を歩いていく上での大きな力となるのです。

南無阿弥陀仏 

2006年04月19日(水) 0時15分
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称える。それでは、この「南無阿弥陀仏」とはどういう意味か。それを語るのが、この話の眼目である。
「南无阿弥陀仏」は、「南無」と「阿弥陀仏」に分解できる。更に、「阿弥陀仏」は、「阿弥陀」と「仏」に分解できる。
「南無」「阿弥陀」「仏」は、すべて、インドの古典語であるサンスクリット語の音を中国語(漢字)に置き換えたものである。したがって、個々の漢字の意味を調べてみても、「南無阿弥陀仏」の意味にはたどり着けない。残念ながら、サンスクリット語の意味を追うしかない。
以下、サンスクリット語の意味するところから、「南無」「阿弥陀」「仏」を説明していく。
「南無」
「南無」は、サンスクリット語で「屈する」という意味を持つ「ナマス」という言葉を音写したものである。南摸(なも)と音写する場合もある。中国語では、帰依、帰順、帰命などと訳されている。心から信じる、まかせる、従うという意味である。
「阿弥陀」
「阿弥陀」は、「無量の命(限りない命)」を表す「アミターバ」という言葉と、「無辺の光(果てのない光)」を表す「アミターユス」という言葉の語幹である。無量、無辺、およそ、我々には量り知ることができないという意味である。
「仏」
「仏」は、ブッダ(仏陀)というサンスクリット語を語源とする。本来は、師匠、先生ほどの意味を表す一般語だったが、仏教では、悟りを開いた者という意味で使った。そして、お釈迦様や、その直弟子が亡くなり、時代が下がると、やがて、かつて悟りを開いた人々の共通項を集めた抽象的な存在を意味するようになった。
つまり、今風にいえば、「南無阿弥陀仏」とは、
1)我々には量り知ることのできない命と光を本体としながらも、
2)人よりは抽象的にして、悟りそのものよりは具体的な存在に対して、
3)心から従うこと

阿弥陀如来様 

2006年04月14日(金) 1時16分
阿弥陀如来(あみだにょらい、amitaabha)は、阿弥陀仏・阿弥陀などともいい、大乗仏教の如来のひとり。「アミターユス(amitaayus)/アミターバ(amitaabha)」を訳して、無量寿仏/無量光仏と呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。極楽浄土という仏国土を持つが、特に西方極楽浄土の教主である。造形化された時は施無畏印・与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を持つ。密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。なお正式名称は阿彌陀、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。

大無量寿経によるとインド王族の出身で、のち出家。阿弥陀仏がまだ法蔵比丘という修行者であった時、非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし(五劫思惟(ごこうしゆい))、浄土への往生の手立てを見出したことにより仏となった報身仏。衆生救済に関して48の願い(四十八願)を立て、特に浄土教において第十八願を「本願」と呼んで重要視する。また、現在も説法をしているといわれる。

これを語源とする他力本願と云う言葉は、本来の宗教的な意味合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存」「無責任」という意味でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味である。
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