戦時中の1943年、逗子町は日本海軍の意向で横須賀市に合併させられました。私が昭和21年に満洲から引き揚げてきて逗子に住んだ頃は横須賀市逗子町でした。
戦後に横須賀市からの分離独立運動が起こり、住民の意思で横須賀市から独立しました。今から60年前のことです。その中心となったのは当時、なぎさ通りの金物商で逗子町の青年団長だった山口茂さんです。山口さんは団や地元医師会、商店街の有志らと「逗子独立期成同盟会」を結成し、1949年11月24日、集会施設「逗子会館」で最初の会合を開きました。
11月24日付けの「Yomiuri On-Line」によると、 同盟会は、横須賀市議会が分離反対を決議する中、該当地域の有権者の3分の1以上による分離請求や住民投票での過半数超え、県議会で可決承認――の3段階の法的ハードル突破を目指して活動したと記されています。
さらに住民投票では8割の圧倒的多数が分離を希望したものの、県議会は当日まで賛成と反対両派が陳情合戦に及ぶ展開となり、大勢の住民が見守る中、無記名投票で賛成29、反対24、白票1の小差で承認される劇的な展開を経て、50年7月1日に独立を果たしたのだそうです。
私は当時の逗子市民の気持ちを受け継いだのが池子米軍住宅建設問題の時に起こった「市民自治」の精神だと思っています。町は完全に二分され長きにわたっての池子闘争になったのです。当時山口さんは容認派の中心で活躍された方です。逗子には住民運動を起こす下地ができていたのです。
その山口さんが中心となり独立の記念碑を建立したのです。記念碑は御影石製で、幅約70センチ、台座を含めた高さ約155センチ。山口さんは「署名活動中に出した独立趣意書には、『自分達のことは自分達の手で始末する独立精神が重要』と記したそうです。その意義を後世に伝えていきたい」と話しておられます。当時の山口青年も81歳になられました。
こんな小さな田舎町、しかも一人立ちができるか出来ないか分からない町が、独立する意味があるのかよく分かりません。
一方で平成の大合併とか、道州制の流れがあり、またこのまちの首長さんは地球市民を標榜する人であったりします。そのご本人が除幕式に招かれてす祝辞を述べるなど、なんかマンがチックです。