甲斐姫 〜真田幸村が勝てなかった女武将〜

November 06 [Tue], 2012, 18:20
Tなんかでちょくちょく特集組んでいる映画のぼうの城。
興味はあるんですが、そこに出てくる甲斐姫という女武将の扱いが納得いかない事になっていそうで、見るのに二の足踏むんですよね。
もしかして甲斐姫の手柄がみんなのぼう様こと長親の手柄になっちゃってるんじゃと。
まあ実際、文献見てもチートすぎて女でこれはないわーと思うかも知れませんけど。
ようやく戦国無双3に出てきたと思えばでは、キャバ嬢みたいな外見でおとこ女みたいな扱いになっちゃってるし泣あ、でもガリアンブレードっぽいあの剣は好きという事で、私が一方的に信じている成田記における甲斐姫タンの大活躍をタンとか言うなツレ談書き散らしてみたので、ご用とお急ぎでない方は見て下さいまし。
長い上に思い入れが多分に含まれているので、その唐ヘ差し引いて読んでネ成田記は関東成田一族の興亡をまとめた江戸時代の書物である。
戦国時代にリアルタイムで書かれた書物では無い為、残念ながら一級の史料とは言えないが、他の史料と比較しても矛盾が少なく、ほぼ史実に乗っ取って書かれたものと言われている。
だがその中に、未だ事実か否かと史家の間で議なっている女武者の項が存在する。
上州で下克上を成し遂げた金山城主由良成繁。
この成繁の妻妙印尼は夫の死後の1584年、金山城が北条氏に襲撃された際に71歳という高齢で篭城戦を指揮した女丈夫であったと伝えられる。
そしてその孫にも、天下に名を残した女がいる。
名は成田甲斐姫。
武芸に通じ軍略に優れ、しかも東国一の美貌と評判の姫武将であった。
小田原征伐編1590年、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は、関東の雄北条家の攻略を開始した。
小田原本城以外の攻略を任されていたのは石田三成。
官僚型と言われる三成だったがそれでも秀吉の重臣、次々と小田原周囲の城を攻め落としていく。
しかし唯一、最後に残った小城忍城おしじょうだけはどうにも落とせない。
小田原城に向かった城主成田氏長に代わって城を守るのは氏長の叔父成田泰季。
指揮を執るのは名将太田三楽斎の娘にして、これまた女傑と名高い氏長夫人と、数え歳18ながらもその武勇で家臣の信頼も厚い氏長の娘甲斐姫だった。
だが、城にいたのは兵わずか数百、薄ッを入れても3千人に満たない。
そんな小城を三成は2万人の兵をもってしても落とせないでいた。
湿地帯に建つ忍城は天然の要害であり、数に任せた力押しも失敗、豊臣得意の水攻めを行っても甲斐姫は意に介さず、人造湖に小舟を浮かべて船遊びで豊臣勢を挑発。
あげくに大雨に乗じて水攻めの堤を切られ、三成軍数百人が濁流に押し流される大損害を被ってしまった。
女の守る城さえ落とせぬ戦下手よ三成に対し、諸将からそんな嘲りの声が囁かれ始める。
のちに関ヶ原の前に三成が親友大谷吉継に挙兵を相談したところ女に勝てなかったと評判のお前では誰もついてこないぞと窘められ、仕方なく毛利を総大将としたというだが、この籠城戦の途中で成田泰季は病死。
ここで城代はのぼう様成田長親に交代する悲しむ間もなく、三成の苦戦の報を聞いた秀吉からの援軍が、城外をぐるりと取り囲む。
その援軍を率いるは戦国一の智将と名高い真田昌幸と幸村当時は信繁親子、そして勇将浅野長政。
彼らの号令の元、わずか数百人の兵が守る忍城に、数万に膨れあがった連合軍が怒涛のごとく襲いかかった。
だが、氏長夫人と甲斐姫の下、城兵たちは一致団結高い士気と忍城の堅牢な守りもあって、連合軍の猛攻を凌ぎ続けた。
しかし圧倒的な兵数の違いと真田の知略、そして連戦に疲弊した間をつかれ、ついに幸村率いる部隊が城門へと迫る。
だが甲斐姫の対応も素早かった。
自ら烏帽子の兜に小桜縅の鎧猩々緋の陣羽織に身を包み、成田家に伝わる名刀浪切を手に城門を守る兵に加勢、兵を叱咤激励しながら敵を切り伏せ、次々と首級を挙げてゆく。
やがて、甲斐姫が女性であることに気付いた敵の猛将三宅高繁が甲斐姫の前に立ちふさがった。
あいや、女将軍よ待たれいそなたを生け捕りにし、俺の妻としてくれるわ甲斐ol 副業姫は不適に笑うと、冷静に弓を構えて矢を射かける。
矢は三宅高繁の喉を貫き、高繁は何が起こったのかわからぬまま絶命した。
敵将、討ち取ったり甲斐姫の武勇に味方は奮い立ち、ついに石田真田浅野連合軍は押し戻され、撤退を余儀なくされてしまった。
だがこの戦の最中に小田原城があの有名な小田原評定の末に先に落城。
ところが、甲斐姫や氏長夫人たちはこれを信じようとせず籠城を続け、やむなく先に秀吉に降っていた氏長が妻子を説得。
こうして、忍城の戦いは呆気なく終わった。
甲斐姫と城兵たちは実に堂々と退去し、その姿を見た幸村はこんな小娘に手玉に取られたのかと嘆いたという。
福井城叛乱編秀吉に降伏した成田一族は、処分が決まるまで豊臣家の武将蒲生氏郷に預けられ、甲斐姫は一族と共に会津に送られる。
だが蒲生は氏長の人柄を見抜いたのか彼を客分扱いとし、福井城という城を任せるという異例の待遇。
当時、会津は伊達が手を回したと思われる一揆や叛乱で情勢が不安定であり、氏長は蒲生氏郷と共に転戦を重ねる事となった。
留守を預かる甲斐姫と氏長夫人。
実は現在の氏長夫人は後妻であり、二人に血の繋がりは無かったが、実の親娘のように仲が良かった。
だが、そんな二人に悲劇が起きる。
城主氏長の留守を曹チて謀反が起きたのだ。
兵を挙げたのは何と、氏長が謀反を起こさないようにと見張りにつけられた浜田兄弟。
見張り番が謀反を起こすという皮肉な結果となってしまった。
不意をつかれた福井城は浜田兄弟の手に落ちてしまう。
氏長夫人は病気で寝込んでいた家臣を背負って逃げようとしたが、家臣共々切り殺され、留守居の者達は甲斐姫を伴って城から落ち延びる。
浜田兄弟の背後には伊達政宗の援助があったとも言われ、蒲生や氏長らが戻るまでに準備をすれば、彼らには充分に勝算はあったのである。
浜田兄弟のだた一つの誤算は、甲斐姫の存在であった。
甲斐姫は福井城を脱出した兵達を即座にまとめ上げると、追撃してきた浜田弟に逆に奇襲を仕掛けた。
義母の仇、覚悟復讐に燃える甲斐姫は浜田弟の追撃勢を蹴散らし、所詮は女と油断していた浜田弟を一刀両断に切り捨てた。
そして異変に気づいて引き返してきた蒲生氏郷と成田氏長の軍勢と合流。
そのまま討伐戦に参加した甲斐姫とその手勢は縦横無尽に暴れ回り、首謀者である浜田兄は手傷を負って捕らえられた。
甲斐姫の武勇はやがて秀吉の耳にも入る。
知勇に優れしかも美人そんな甲斐姫の話を聞いて秀吉は黙っていない。
彼女は秀吉の側室となり、成田一族は甲斐姫の口添えで助命されて滅亡を免れ、後に2万石の大名となった。
武芸の達人であった甲斐姫は秀吉の護衛も努める事となる。
そのサバサバした性格は他の側室達にも好かれ、あの淀君とも仲が良く、後に秀頼の守り役を任される程信頼されていた。
大阪夏の陣冬の陣編時は流れ甲斐姫は秀頼の娘つまり秀吉の孫である奈阿姫の教育係を務めていた。
この奈阿姫は、甲斐姫が秀吉の側室になった時に連れてきた侍女が秀頼の側室となり、生まれた娘である。
その侍女も成田一族成田助直の娘何不自由無く暮らしていた甲斐姫と奈阿姫だったが、時代の波は彼女たちの運命を押し流していく。
1598年に秀吉が死去、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康に大敗、天下は大きく揺らいでいた。
1614年、大阪冬の陣。
徳川幕府にとって目の上の瘤である豊臣家を切り取るべく、ついに徳川家康が動いた。
そして1615年大阪夏の陣豊臣家最期の日、炎上する大阪城を背に、甲斐姫は奈阿姫をつれて城を脱出した。
豊臣の血を絶やさんと二人に迫る徳川の兵達。
さがれ下郎甲斐姫の剣の腕は未だ衰えず、忍城攻防戦を共に戦ったあの名刀浪切を振るい、群がる敵を次々に切り伏せていく。
豊臣側の名だたる武将が次々に散っていく中、彼女たちは見事戦場を離脱、男子禁制の尼寺鎌倉の東慶寺に逃げ込む事に成功する。
しかし奈阿姫の父秀頼は自刃、異母兄国松丸も処刑され、豊臣の係累である奈阿姫にも死の影が忍び寄る。
もはやこれまでかいざとなれば奈阿姫と共に自刃の覚悟であった甲斐姫だったが、ここで奈阿姫の義理の母で、秀頼の正室千姫から救いの手が伸びた。
現将軍秀忠の妹でもある千姫は、秀頼の守り役であった甲斐姫そして義理の娘の奈阿姫とも仲が良く、甲斐姫の勧めもあって奈阿姫は千姫の養子となっていた。
その千姫の口添えもあり、二人は東慶寺で出家し、尼になる事を条件に特別に助命された。
エピローグその後、甲斐姫がどのような暮らしていたのかは不明である。
ただ、側室たちの間でも人望のあった彼女の事だから、おそらく尼寺でもうまく溶け込んだのではないだろうかもしかしたら、これからの女性は強さも必要とばかりに、他の尼さんたちに薙刀を教えたりしたのかもしれない。
奈阿姫は後に東慶寺20世住職天秀尼となる。
もともと東慶寺は縁切り寺として、夫との離縁を望む妻が駆け込み、離縁の調停を行う寺として有名であったが、1643年、会津藩主加藤明成と家老の堀主水が仲違いして堀が殺害され、堀の妻子が逃げ込んでくるという事件が起こった。
後の世に言う堀騒動である。
妻子の引渡しを要求し恫喝する大大名を相手に、天秀尼は男子禁制女性保護を盾に一歩も引かず幕府に訴え、結果幕府裁定で加藤家はついに改易に追い込まれた。
そんな天秀尼の剛窒ウと勇気もまた、甲斐姫の教育の賜物なのかもしれない。
天秀尼こと奈阿姫は1645年に37歳で死去。
墓は現在も東慶寺にある。
甲斐姫は没年不明。
ただ、東慶寺に眠る天秀尼の墓の横に寄り添うように建つ石塔があり、それこそが天秀尼とともに余生を送った甲斐姫の墓と伝えられている。
ところで、大阪の陣の際、甲斐姫と真田幸村は今度は味方として再会している。
日本一の兵と呼ばれた男と、その男をもってしても勝てなかった女どんな会話を交わしたのか、残念ながら記録には残っていない。
おわり
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