今野信雄『江戸の旅』

November 08 [Thu], 2012, 14:44
86年発行の岩波新書。
戦後、観光といえば社員総出の飲めや唄えやのドンチャン騒ぎの慰安旅行、終日残業で疲れ切ったおとうさんが家族サービスとばかりに妻と子供ふたりを連れて、満員の列車に乗り込み、席に着くや朝早くにおかあさんが作ったお弁当を慌ただしく食べるような家族旅行が一般的だった。
それが、70年代後半、80年代に入ると、〈キャピキャピした〉84年の流行語女の子がひとり、あるいはふたりでアンン族70年の流行語、古いとして古都、古刹を経巡る観光スタイルが流行定着した。
この本の発行時期は、国鉄が発案、主に近畿日本ツーリストなどが牽引したディスカバージャパン日本発見、日本を探そうくらいの意味でしょうかがいちおう成功したあと。
だから、おそらく本の趣旨としては、そうした観光観の変化がどのように日本人の旅に影響をおよぼしたのか、いやそもそも日本人は古来どのように旅をしてきたのかを、主に東海道を中心にして描きだそうというものだろうと思う。
本全体の感想をまず書くと、お伊勢参り、金毘羅参りなど、江戸時代のひとびとの信仰を集めた錘ミに、どのくらいの人数が、どのくらいの日程で、どこに泊まり、幾らの旅費で行ったのか事細かに記してあり、なんだか読みつつ自分も伊勢路を草鞋で踏む者の景色を観る思いを味わうことのできた一冊だった。
以下、気になってチェックしておいた個所を引用しつつ。
ここで特殊な例だが漁民の宿をとりあげてみよう。
つまり船宿だが、当時の船は風次第で出航の日どりが分らない。
そのため宿賃もいくらと決めることができず、船頭次第の勘定である。
船宿の方からいくらいくら下さいとは決していわなかったそうで、船頭もまた利益があがった時に応分の金を支払った。
これはいわば大名の本陣の考え方と同じである。
p45船宿文中の本陣とは、大名が家臣を引きつれて江戸に参勤するさいに泊まる宿のこと。
本陣にお殿様を泊めたさいには、宿賃を請求するのではなく、手間賃を光栄にももらえる、という形式を採っていたという。
この手間賃もなかなかばかにならない金額であったため、幕末になると諸藩は本陣での休憩、宿泊を厭うようになったとか。
次は、藤村の夜明け前にも描かれた、十四代将軍家茂に降嫁した和宮の一行の行列風景。
和宮が京都桂御所を出立したのは十月二十日だが、供は京都方が一万人、江戸方が一万六千人。
十二の藩が輿を警護し、二十九藩が沿道の警備にあたって、蟻一匹通さないほどの構えだった。
和宮には第一陣、第二陣がいる。
そして後には後陣があるから、行列の長さは延々五十キロに及び、各宿場は四日間にわたって行列を送迎したことになる。
p55前代未聞の大行列公武合体という、多分に政治的な理由による将軍家と和宮との婚姻には、それをぶち壊そうとするアナーキストたちを招き寄せかねないものがあった。
そのため、わざわざ東海道ではなく〈木曽路はすべて山の中である〉中山道を選んだのだという。
ちなみに夜明け前ではこの行列を〈前代未聞〉と登場人物金兵衛に言わせている。
旅とは、日本人にとってなんだったのだろうか本書は、それに深く切り込むような筆致で書いているわけではない。
でも、古来から遺されている古道、日記などから、どのようにして在ったのかを丁寧に描いていく。
まず平安よりもさらに昔、石器時代の旅は、どんなものだったのか。
これは、一口でいうならば生活の旅であるp6としていて、つまり初期の社会にも存在していた交易が旅にあたるということだろう。
釣り具や狩猟に用いる動物や魚の骨や、寒さに備えるための毛皮や、自然に生える食用植物が交易された品々だったろうけれど、もっとも重要なのは、おそらく塩であったと思う。
これについては宮本常一氏の著書を参照しながら考えていくと、もっと精緻な説明ができるはず。
そして平安、鎌倉と日本の支配体制が一応西日本の本州地域を中心に網野善彦確立されると、権力拡張p7の旅が生まれる。
貴重な鉱石、貴金属、砂鉄や水銀などを求めて東日本へ朝廷はしばしば侵略の軍を派遣する。
それらの物資を運搬するため、すべての道が平城京へと通じたp7時代の旅もあった、とするのだ。
この権力拡張には、同時にその権力の維持も含まれている。
その務めを果たす者たちが、防人たちであった。
朝鮮半島から侵略を受けることをおそれた朝廷が派遣した者たちで、彼らの流浪もまた旅であった。
こうした状況だから、古代における庶民の旅はまったくやむを得ざる事情のもとに、なかば死を覚悟したものだったといっていい。
p9この旅の観念を変えたのが、僧侶たちや在家の貴族たちがおこなった巡礼だろう。
彼らが国内を経巡るための利便を考えて、各所の寺が休憩収入 ネット所を設けた。
おそらく、日本最初の公営ホテルの誕生。
いや、ほんとうはすでに公営ホテルは存在していたんだろう。
つまり、大昔ならば邪馬台国や伊都国いまの福岡県の糸島周辺といった古代国家、後には朝廷に遣わされた古代中国の使節を迎える建物がそうだ。
でも、それはいまでいう先進国の公人が海路を経て疲れを癒すための施設であり、日本に住むひとびとが旅の宿とする場所ではなかった。
寺後には錘ミもはそういう意味で重要な意味を持っていると思う。
また、宗教の持つひとの移動の促進についても、考えていけばなにか人間の心理について深いところへといざなうものがあるかもしれない。
上記のことを考えれば、信仰はひとをうごかす、ということばはなにも心理的な面だけでなく、身体についても言えるんだろう。
この、ひとの往来が盛んになるに従い、日本は近世、江戸へと時代を移していく。
錘ミ仏閣のなかにあった休憩所の役割は、しだいに周辺の民家が担うようになる。
民家は宿へと代わり、ついには錘ミ仏閣の周辺に宿場町があらわれる。
これが、だいたいの旅の遍歴だけれど、さらにはここに、祈祷師、旅芸人の視唐よる旅、子供の目から見た旅、さらには湯治、塩湯治海水浴といった治療健康のための旅もあり、とても直線的な歴史の概観によって語りきれるものではない。
そして、庶民にとっての旅の目的は、上記のように一応は信仰お伊勢参り、金毘羅参りなどではあったけれど、同時に慰安、物見、遊山、蕩尽の旅でもあったことに触れないといけない。
どうせ故郷をおん出てのびのびとしてくるわけだから、美味いものを食べ、女を買い、ちょっとくらいは悪いことにも手を出すこれも否定できない旅のたのしみであったわけだ。
そして、こうした一面の旅に付随してくるのがスリや縁浮レったくりの籠担ぎや追い剥ぎや違法営業の風俗店だった。
最後のものに説明をくわえると、江戸時代には宿場町全体でこれこれ総計何十人までしか飯炊き女給仕を雇ってはならんとお達しが出ていたという。
その飯炊き女は、ある宿、あるいはある宿場町においては同時に商売女でもあったというから、幕府はある程度のところ風俗の経営を黙認しつつ、過度に乱すことは禁じようとしていたようだ。
また信仰、あるいは慰安のどちらが主な目的であったのかはともかくとして、江戸時代の庶民に旅に行きたいとつよく促したものが、文人たちの各種の旅行パンフレットであったというp155。
現在駅や旅行代理店に置いてあるようなパンフとおなじようなものだけど、旅の心得などもきちんと書いてあったりして、当時の旅人の必携の本であったものも多いという。
内容は、草鞋は安物を買おうとせず、きちんとした品を何足持っていけ道中これこれを食べておけば腹を下さない宿ではこれこれを蒲団に入れておけば蚤におそわれないなど、かなり親切丁寧な指南書となっている。
そのなかで、ひとつ気になった唐鴻i後に。
たとえば船酔いする人はどうしたらいいか。
一、はじめおおいに嘔吐してその後に喉が渇くから、そのときは幼児の便か、あるいは大人の小便を飲ませるがいい。
ただし水を飲ませると即死する。
p159船酔いと蚤すさまじい酔い止めの方法だとは思うけれど、それはともかくとして以下はまったく本書の内容とは関係ないけれど、こうしたマジナイについて、すこし考えていることをば。
引用した酔い止めの方法は、思うにアジア地域にひろく流布していた、糞尿に薬効があると信じられていた時代の、ごくオーソドックスな記述だろう。
ほかに河豚の毒に当たったり、狂犬病に対しても、地域によっては糞尿を薬として伝えているところがある。
ただ、それにしてもどうして糞尿でなければならないのかという疑問はのこる。
剥kにとって糞尿が肥料となることは古来から知られており、そこになにか芽生え回復のイメージが具わっていたのかも知れないけれども、やはり昔のひとも糞尿の感触や臭いから、穢く、厭わしいものと捉えてもいたはずだ。
それを、服するということには、なにか転倒があると僕には思える。
根拠がないため、思いつきで書くことをお許しいただきたい。
すくなくとも上記の酔い止めに関して言えば、これは眉唾とおなじ意味があったのではないだろうか。
つまり、現代的な治療としての酔い止めではなく、マジナイによる正常への回帰。
どういうことかと書けば、近代以前の社会には山村でも漁村でも都市部でもなにか現在の正常な状態を、まるで逆転させてしまうものが存在していると信じられていた。
その存在が、都市部に定住しているとすれば、境内のなか、鎮守の杜のなかの垂ナあったり、路地の祠の狐であったり、辻の垂ナあったろう。
山村や漁村もおなじく錘ミや祠に居る山や海や村境の垂ェそうだろう。
そして、定住せずに、無差別に、人間の都合などおかまいなしに存在して、ひとを苦しめたりする垂燒ウ数にいると信じられていた。
そうした垂烽驍は妖怪としてもいいにひとが出遭ったとき、そのひと、あるいはその場所はもはやそれまで連続していた普通の世界ではなくなってしまう。
正常な状態が転倒を起こし、異なる世界にひとは放り込まれてしまう。
山中や水上での卒中、脱水症状、資f欠乏症現代ならばこうした症状で説明される事態は、きっと、江戸時代のひとにとってみれば、垂笳d怪の類におそわれたと感じていたんじゃないだろうか。
そうしたさいに、ひとびとがやってきたことがマジナイである。
たとえば山中とつぜんに足がすくんでうごけなくなる。
目の前を、白い靄のようなものがとりまいている。
このときにたとえば頭に草鞋を乗せることが、その怪異から脱出するためのマジナイとなる。
また、暗い夜道をふらふらと空中を火が舞っている。
これは狐が化かしているにちがいない。
このときには、それこそ眉に唾をつけることで、逃れることができたという。
ここで僕が注目したのはほかにもいくらでも例をあげることはできるだろうけど、なにか異常な事態に遭遇したさいに行うべきこととして伝承されるマジナイのなかに、物事の転倒を人為的に起こすものが多いということだった。
怪異とは正常な世界の転倒によって起こる、ならば、それをふたたび転倒させることで、正常に戻してしまおうということだ、こう僕は考えたのだった。
さて、すっかり江戸の旅から話は遠ざかってしまったけれども、もう少しだけ。
この、世界の転倒再転倒ともいうべき、怪異とそれへのマジナイによる処置は、近代科学到来以前のひとびとの自然へのまなざしを端的に示しているように思う。
そして、自然にただ恭順するのではなく、ときにマジナイによって変容させることが可能と信じるということに、現代に生きる僕とはちがう態度のオモシロサを感じている。
以上、おそまつな意見でした。
これに関係させて次回予告を。
こうした、自然への態度がみなぎる世界を描いたアフリカ文学の小説、エイモスチュツオーラやし酒飲みの感想を取り上げてみたいと思います。
最近聴いている音楽。
PILThisIsNotALoveSong1984。
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