昨日、NHKの教育テレビで1時間半にわたり、尊敬する吉本隆明の講演があった。再放送である。2年前のものを再度放送したのである。徹底して自分で検証し、考え、人真似はせず、自前の思想を発言しつづけた人である。僕の考えや行動は多くは乗り切れられない幼い頃に親からプリントされたものからきているものと思うが、吉本隆明の思想によって、僕自身の人生はいかんともしがたく豊饒になったと思う。
一人の人の脳にある思想を38年にわたり追い続け、師匠のように思ってきた。ほとんど全部読んでいる。またそれを2度、3度、一部の本は5度読んでいる。
戦後、この人以上に自らの雑誌で発言してきた人はいなかった。現在、思想だ、なんだと言っている人たちは飯は権威にすがり、名刺の上にのせる肩書きを書いて物申す人々である。宮台真司などはそのお手本である。彼は現実を分析するのが好きらしく、自民党からも民主党からもおよびがかかりご意見しているようである。
吉本隆明がえらいと思うのは一切それをしなかったことである。自ら雑誌を起こし、購読料でそれを運営し、その雑誌の中で、「言語にとって美とはなにか」や「心的現象論」を執筆していったのである。自分が書くことで購読者からお金をもらい、単行本を弱小出版社から出して、食いつないでいったのである。
ちょと贅沢をしたければ安定した大学などに勤めて、好き放題なことを言っておればよい。
そんなものじゃないだろう、と僕らは思う。
世は権威の傘をもらい、その中で飯を食うことで、その人のことをえらいなどという妄想であふれているが、本当のところはそのような人を拝め奉るのも庶民、フンとバカにするのも庶民である。
吉本は一生懸命になって芸術論を語っていた。50年以上かかって考えてきたのだから、わずか1時間半ほどで全部語れるわけがない。
野蛮、原始の頃の人間は現代のようにあれこれと気をとめるものはなかった。現代は漫画があり、映画があり、いろいろなジャンルに小説はわかれ、絵あり、音楽があり、ファッションがあり、多岐にわたったものがある。なにもない昔の時代に言語が芸術として短い詩の中におのれの魂を込めるのは現代人はかなうはずもない。言語の芸術が無価値なんだと言いながら、言語の芸術は「自己表出」に純粋化に「あるとするなら、それが成り立つのは至難の業であり、現代は難しい時代であることも言っていた。しかし僕らは言語の芸術を求める。糸井重里はその辺をよりききたかったようだが、テレビの枠では困難なことのようにも見えた。
言語芸術の無価値化をいいながら吉本隆明はその言語芸術に没頭した人だった。
はたして、自分にしかわからないような自己表出で書かれた詩をどれほどの人が読むだろうか。現代人の共通した底に流れる思いを新しい言語表現で表出される時代はすでに遠ざかっている。プロレタリア文学のように政治目的のために啓蒙する文学などは芸術とは関係がないとしてきた吉本隆明の論理がこの講演会ではきわまってでてきている。
吉本隆明は現在84歳。脳は若い。驚くほどの精神の強靭性をもっている。自分の仕事の範疇をしっかりとわきまえた生活人であった。いわば職人である。