体調がややすぐれない。今日寒気がし、あまりにもゾクゾクするので、体が冷えきったのかと思い風呂に入ったが、風呂では温まるものの、出るとまた寒気がする。布団に入っていて、ふと風邪でもひいたのではないか、と思い、風邪薬を飲んだ。ぼんやりとテレビドラマを見ていたら今度は汗がでてきた。風邪薬のせいだろうか。これほど変化があるとは、もう寒気はなく、今度は暑いのがたまらず、いったいどうなっているんだと思う。風邪症状がない。だるいわけでもない。咳をするのでもない。
寝床にいても寝付かれないので、橋本治の小説「巡礼」を読んでいた。妻が興味深かった、なんの有名でもない一庶民の物語が書かれていて、物言わぬ一庶民の戦後史が書かれているらしい。
第一章を読んでいて、飛ばし読みがしたくなってくる。物語はゴミ屋敷の男をどうにもできない住民や市役所の役人のなすすべのなさへの落胆から始まっている。私有地にあるゴミを私有財産だといわれたらどうすることもできない、という愚かさからの様子が描かれる。ゴミ屋敷の住人の私有地には家だけでなくその空き地である私有地にもゴミがためられ悪臭をはなっている。大量のゴキブリ、蛆虫が湧いている。
このような導入部分であったが、なんだか読む気がしなくなってしまい、途中でやめた。
僕はどうやら今小説を読む余裕がないらしい。
どうしても知識習得のほうに精を傾けてしまう。
そのおかげか、この十日ほどでも多くの身体のことを知った。僕は医者ではないので、哲学的に考えている。たとえば人間の呼吸は不規則であることが自然だ、みたいなことだ。腸と脳との互いの交流は植物系と動物系の名残のコミュニケーションではないか、と思ったりすることだ。それは生物の一方が植物になり、一方の動物は腸のみの個体になった(腔腸動物)ということだ。
そして僕らのあるゆる細胞にはその頃からの遺伝子が脈々とつながり、潜在的には記憶ももっているのではないか、ということだ。
僕はややもすると美容と健康についてのトークを組み立て、それをテキストにしたり、トークにしたりしているのだが、本来はよくある「○○流の健康法」などということはしたいとは思っていない。
生涯の仕事として、「人間とは何か」について僕流に考えたいのである。そのなぞは生涯をかけてわかるはずもないが、好奇心は高まるばかりなので、僕は人が押し紙をしたり、趣味で作り物をしたりするのと同じように、本を読み、書き出し、自分の頭で考え、組み立てするのが好きでそれをやっているという按配である。
人はどう生きるべきかなおどと啓蒙する気はさらさらない。あるのは人間はどうなっているのか。その体と心はどうなっているのか、という関心のみである。 このことがそうもわかってもらえない。選挙なども僕の文脈でやったことで、それを見抜いたのは息子であった。 自分が進歩しているのがわかる。3年前の知識と今の知識とでは断然違う。進歩はもうひとつある。自分の舞台以外あんまり主張しなくなったことだ。
今エステやセラピーのことをやっているが、考える環境としては結構いものではないかと思っている。