001 考えるということ 

2004年10月25日(月) 19時59分
初めのお題が「考えるということ」・・・。なんか、面倒だな私は、自分や人が考えることについて考えた事がない。何か具体的な時事問題などについてなら考えもするのだが、「考えるということ」自体にはとりわけ興味がないから。
しかし、あえて考えてみると、「考えるということ」を考える事は、大切な事のように感じるし、無駄な事のようにも感じる。昔の哲学者が思考で生計を立てていたかと思うと滑稽で仕方がない。つまり、贅沢な引き籠りか皮相的な暇人だったのではないか?と思われる。しかし、その皮相的な暇人は大変重宝された。そして、国王などに学者などという位まで宛がわれ、あろう事か人に自分の思想を教え込んでいた。人によっては弟子までつけ・・・
っと、ここまで書くとさらに話は脱線して言ってしまうので止めにする。つまり、私が言いたい事は、「考えるということ」それ自体は私にとってではあるが下らないことなのだ。考えなどその時によって変わったりもする。わざわざ、「考えるということは・・・する事だ」などと論じたところで何にもならない。

002 私 

2004年10月25日(月) 20時41分
2つ目のお題は「自己紹介で良い?そうだな、「私」・・・完結に言うと

誇り高き変人

なんだと思う。それは何故か?私はナルシストだ。自分に対して物凄いプライドを持っている。自分は何よりも大事だし、何よりも上にあると思っている。時には、この世で出来ない事など自分には無いとさえ考えてしまう。そんな面で言えば、自分に誇りを持ち、胸を張っていられるのだと思う。
そして、もう一方では、自分には何も出来ないと痛切に感じ、挫折を繰り返している。そして、そんな自分が醜く思え、他人に出来る事が自分に出来ない時などは特に薄っぺらい人間なのだと悟ってみたりする。だからこそ、なのだ。まぁ、ようするに、ただ自分に酔い浸っているだけなのだろうけれど、その落差というか、上り下りが激しい。一歩間違えれば躁鬱病と診断されてもおかしくない程だ。私はよく「変わっている。」とか「面白い発想をする。」と評価される。実に気持ちの良い響きに思わずウットリしてしまう!実際問題、私は変わってなどいない。むしろ、発想力を褒められるほど奇抜な提案など生まれてこの方してきたことなど無い。しかし、そういわれることに悪い気はしない。変人扱いされる事に興奮と快感を覚える。つまり、「誰とも似ていない」「僕(私)とは違う種族なのだ」と一つ線を置き考えられているのだ。他のものと一色単に考えられる事ほど屈辱的なことはない。あぁ・・・ここが変わっていると言われる要因なのだろうか?普通(この言葉は好きじゃない。)、皆と同じ事に安心感を覚えるものなのだろうか?人の模倣をして評価など付く筈もないのだが、それでも、人と同じじほうが非難を受けないから安心だとか、思うものなのだろうか?そんな考え持ってないからしらねーよ
私は、自分が好きで、その反面、一番嫌いだと思う。

だからこそ、なのだ。

003 自由論 

2004年10月25日(月) 21時35分
自由など、存在しない。はじめにそう述べておこう。
「人間は生まれながらにして皆自由である。」そうリンカーンだか誰だか知らないが、言ってる奴がいる。確かに、誰かから縛りを受ける筋合いは世の中全ての人間にはない。しかし、この言葉は嘘である。人間が皆自由だったら宙だって浮ける。肉体だってないはずだ。と、根本的な部分になってしまうが。人間は生まれながらにして、地球と言う惑星に降り立った。その時点でもうすでに自由ではない。次に、酸素を吸っていないと存続する事が出来ない。おまけに重力によって、地面に足をつけ歩き、体を横たえ眠る。肉体があることによって、物理的な行動を強いられている。もう、その時点で自由などと言うものは存在していない。
ここに挙げた自由は本当に極端なのかもしれないが、実際、そうだろ?

もう一つ、精神的な自由について考えよう。存在しても、認められない。それは何故か?自由とはつまり、破滅を望む行為なのだ。人の心に制限はない。しかし、制限がないからあえて作られる規則が必要なのだ。制限がないと言うことは、善悪の判断もないのだ。人間と言うものは太古から共同生活をして来た。その過程で、規則やある程度の縛りが生まれてきたのだ。必要だったから。それを無くせば、初めのうちは開放的になり、幸せの絶頂を得られるのかもしれない。しかし、ある程度欲求を満たしてしまえば、後は自由に退屈を覚え、狂い始める。自傷行為も、周りへの攻撃も、破壊行動や、脳内の崩壊も、何もかもが起きてしまう。まさに、地獄絵図になりかねない。
私は、自由を望む。人が狂う世界を望んでいるのではない。存在しない「自由」を望む事によって、何かに希望を抱いているだけだ。

支離滅裂かもしれない。読んでる人、ごめん。

004 友達とは 

2004年10月25日(月) 21時56分
友達とはか・・・私にとって、友達とは、自分の命に代えても守れるもの。だ。言葉では簡単に言える。しかし、怯む気持ちは在っても、私は、胸を張ってそう言ってみせる。そう、行動だってとれる。

だって、それくらいのものだろう?上辺で付き合ってるヤツを「友達」だなんてよく言えたものだ。皮相的な付き合いだったら、もう「知り合い」で片付けるべきだ。そう考えると私の友達ってのは本当に僅かしかいない。18年、生きてきて、広く浅くを心がけてきたのだが、たった一人だけ、私を「羨ましい」と褒めてくれる人がいる。その人だけだ深く付き合っているのは。そんな事を言ってしまうと、他の人を否定しているように感じるかもしれないが、そんなこともなかったりする。
簡単に言えば、人は人、自分は自分。付き合ってきている人を粗末に扱えるほど自分は偉くもないし、賢くもない。他の人の良さがあれば、それを肯定はするけれど、全てを見せるまでには到らないだけ。

全ての人に自分をさらけ出せるほど馬鹿にはなりたくない。ともだち、その人には、全てを見せても良いと思う。例え、裏切られたとしても、それは構わない。(まぁ、金銭面では交流は持てないけれど)
私は、友達が何か罪を犯しても、自分だけは味方でいたいと思う。例えばそれを無実だと主張するのなら、どんな状況でさえ信じ続けよう。
罪を被せられても、友達の罪を被るのなら、喜んで引き受けよう。友達の心のどこにも、「罪悪感」が存在しないなら、の話だけれど。もし、少しでも、ほんの爪の先の塵だけでも罪悪感を感じているのなら、そんな事は起こらない筈だから。

友達は、いつも私の味方になってくれていた。いつ相談をしても、引き受けてくれた。私はいつも、助けられっぱなしだ。だから、私は、友達のあなただけは守ってみせる。

どんなに不安があっても、そう、言ってみせるよ。
今は大言壮語かもしれないけど、いつか、辛くなったら教えて?必ず守ってみせると誓うよ。

005 常識・普通 

2004年10月25日(月) 22時28分
この世には、必要不可欠で、そして、何よりも曖昧なものなんじゃないだろうか?

わたしは「普通」とか「常識」って言葉が嫌い。
そもそも、育つ環境によっても変わるし、山崎まさよしの「セロリ」が言い得て妙なんじゃないだろうか?ま、アレは恋の歌なのかもしれないが。

嫌いなものについて考えるのは癪に触る。
だから、コレでおしまい。

006 芸術 

2004年10月25日(月) 22時33分
芸術を考える時、私はをイメージする。
女の持っている繊細さと、ボディーラインの曲線美を思い浮かべるのである。
女とは奇妙な生き物だ。あんなに小柄でも、男以上に生命力を持ち合わせていて、あんなにも繊細で強く握るとへし折れてしまいそうな体つきをしているくせに、実は男よりも頑丈に出来ている。
男の体にも、美は存在する。しかし、曲線が少ない。ゴツゴツ角張っていて、鍛えなければだらしのない極端なラインを作り出してしまう。
そして、突起しているあの部分。女には陰部に突起物はない。それが良い。
自分が女に生まれた事は、男側の感覚を味わう事が出来ないので悔やまれて仕方がないのだが、女と言う生き物に対して言うならこの世の賞賛を受けるべき物体なのではないだろうか?
そこまで、賛美してしまうと、極端で気色が悪くなってきたので、少しだけ、落としておこう。

女の背中は美しくない。もちろん、ラインは素晴らしいが、天使の羽が極端に少ない。
天使の羽とは、肩甲骨のふくらみの事である。
ここに女は肉を付け過ぎている。
ミロのビーナスを誰もが知っているだろうが、あれは、その時代の女性には似つかわしくないくびれのない体つきをしている。
しまりのないお腹、剥き出しで垂れ下がった胸。弛んで横に広い顔。どれをとっても「ビーナス」なんてものじゃない。
しかし、あのビーナスには唯一、天使の羽による美が現れているのだ。片腕を上げ肩甲骨を強調している。たしかに、しまりのない肉によってかき消される面も多少在るのだが、それでも、天使の羽が存在しているのだ。少しだけ突起している。アレが素晴らしい!
少しでも、羽が浮き出ている。「少しでも、美しくありたい」そう健気に訴えかけてくるものがある。あのイヤラシさといったら、他にはない。
そう、それはまさに、天使の羽を愛する人間にとってミロのビーナスは「ビーナス」に違いないのだ。


話が脱線しているかもしれないが、結局何が言いたいのかと言えば、「女は芸術品」なんだぞって事。

私は、その一部には入りたくないけれど。

007 学校・学ぶということ 

2004年10月25日(月) 23時03分
学校は必要ないんじゃなかろうか?
義務だなんだとわめく前に、一人一人、自ずと見えてくる興味に延長線を延ばしてやる事の方が良いのじゃないだろうか?
私には出来ない事だらけで精神的に滅入ってしまった経験があるから、学校が嫌いなだけかもしれないのだが、学校がなくても、生きていく知恵は身につく。興味関心ごとにならどんな努力だって惜しまないものなんじゃないだろうか?
ま、それで、極端な世界が出来ては困るので、学校がある事を否定する事は出来ないのだけれど、私にとっては不必要なものだ。

学校と、学ぶ事を一色単に考えることは出来ない。
生きている限り勉強は続く。
学校を出たって、社会に揉まれて人間は成長する。
もちろん、退化してくる人間もいるだろうが、それは学ぶ態度の良し悪しになるだろうし、学ぶ器量にもよるだろう。
年を重ねるごとに一つずつ覚えていき、さらに年を重ねるにつれ熟練されていく。
それは、また下の者に伝わって、熟年者は老いを迎える。他界を迎える。

結局、学ぶ事はそれの繰り返しなんじゃないだろうか。

内容が薄っぺらい気がする。
ま、いいか。

021 家族 

2004年10月25日(月) 23時18分
私は、恵まれた環境に育ったらしい。そのくせ、茨の道を歩みたがる。
昔から、母親は厳しかった。しかし、感情的過ぎてただ怖いだけの婆に過ぎなかった。

私は、家族をそれ程大切なものだとは考えていない。
産まれて来た時から既に与えられていたこの家族には執着するほどの魅力が感じられないのだ。
「何か起きた時に頼れるのは家族だけ」と母親は言う。
そんな言葉も薄っぺらく聞こえて仕方がない。
なぜ、大変な時に頼るのだろうか?家族を。
「遠くの親戚よりも、近くの他人」という言葉もあるほどだ。
頼りになるといっても、限度と言うものがある。

余裕がない時に態々家族を頼ろうなんて思えるはずがないじゃないか。


私が薄情なだけなのだが、たとえ家族であっても、入っていい敷居と言って良い事があると思う。
尊重しあうべきなのに、母は依存を求める。
何故、全てを明かさなければならないのか?馴れ合いの関係を生んで一体何か利益が生まれるのだろうか?
尊重とはつまり、お互いを認め合う事だから、個々の人格で形成された家族という一括りを、一つ一つを傷つけないように括ってくれれば良い。
そう、つまり、融合を望まなければ、それだけで良い。
はずなのだけれど、母はご都合主義でそれを認めない。

時には、「私」と言う自己を家族から切り離して意見し、また別の機会には「私」と言う自己を否定して「家族」と言う融合体を肯定して意見する

「私はあなたじゃないんだから、あなたの気持ちが分かるわけないでしょ」
「家族なんだからあなたの言っている事が分かって当然でしょ」
っと、まぁ、こんな所だ。

一貫性がなくて腹が立つ。
そして、18年間、母に振り回され続けている気がする。

家族でも、個人でも何でもいい。
なにも、家族に重点を置く必要性なんて微塵もない。

っとまぁ、否定してみる。

008 才能 

2004年10月27日(水) 1時08分
才能なんてものは、世の中に溢れるほどある。
そんなものは元々ある土台を以下に上手く見せるか、どう磨き上げていくかに掛かっているのだと思う。

確かに、生まれてすぐに鬼才として名を轟かせる人間も中には存在するだろう。
しかし、それは時期が早いだけであって、誰とも変わらない。土台の見せ方が巧みだったか思うとおりに磨き上げてきたからこそなせる業なのだ。


私には器用貧乏という欠点がある。
何をしても、10人並以上にこなせてしまうくせに、熱意がないために途中で放棄してしまう。

そのため、「極めれば天下」っと言う諺の如く、極める事をしない半端者なのだ。

何かに才能を見出してそこを磨けば極めて天下を取れるかもしれない
しかし、そんな事を言えば、誰もがそうなのだと思う。

誰もが「極めれば天下」なのだと思う。

009 悪と正義 

2004年10月27日(水) 1時21分
悪と正義?
そんなもの、この世にはゴロゴロ転がっているじゃないか。

アメリカを悪とすれば、一体どこが正義なのだろうか?
アメリカ自体は自らを「正義」と名乗っているではないか。
ただし、「個人的恨みにとって、イラクを叩き潰すために正当化しているに過ぎないのだ」と評価する人間もいる。


私は、悪も正義もそんな事を言ったら「同じじゃないか」とも思う。

人間が生きるために他の動物を殺す。

動物が生きるために他の動物を殺す。

動物が生きるために人間を殺す。

どれも罪にはならないし、生きるためには仕方のない事なはずだ。

しかし、3番目の人間を殺す動物は、人間からすれば悪になる。

ようは、ものの見方に過ぎない。
悪や正義なんて、どこにでもあって、都合の良いものに過ぎない。

言い様によっては、「ヒットラー」だって正義の部類に入ってたんじゃないかな?